忘れてもいいよ、

わすれたくないよ。














庭に、新しい花が咲いたらしい。





総司が、それを摘んで部屋に持ってきた。


花弁の赤色が鮮やかで、甘くさわやかな香りが鼻腔をくすぐる。







「―――――きれいでしょう?」



ていうか、永倉さんの部屋って物がなさすぎです、と俺の部屋にあるたぶん花を飾れるだろう状態の花瓶を持ってきて、花を入れようとする。

そんなのよりもっと大きいのが、と言おうとして、そういえば随分前に落として割ってしまったのを思いだす。


ちょっと赤っぽいギヤマンの、綺麗な花瓶だった。落としてしまった。平助が出て行った日にだった。

俺はそれをすごく気に入っていて、すごく悲しかった。



総司の手にある2本の花を見て、それ、一輪挿しなんだけど、というと、

総司は「2本挿したほうが綺麗だからいいんです」って言って無理やり2本挿しこんだ。



一輪挿しに挿された二本の真っ赤な花は、雨の雫できらきら光っている。

鮮明な赤は、すんなりと目に馴染んで記憶に残った。





「・・・・・・・・・赤いね」

「えぇ、赤いです」





少し記憶を引っ張り出して、平助を思い出した。

涙が目に膜を張る。零れないくらい、僅かだ。



以前は何かを見る度に思い出された愛しい人の最期は、今は意識しないと頭に浮かびすらしない。





その変わり浮かんでくるのは、昨日の散歩の時に見た大きな林檎とか、一昨日の綺麗な夕焼けとか、割ってしまった花瓶とかで。

忘れるなんてやだな

そう思ってみるけど、その想いすら、焦燥感を伴ってはくれなくて。









「・・・・・ながくら、さん、」



呼ばれたけれど、気付いたけれど、花に見惚れるふりをして、聞こえないふりをした。



そんな俺を悲しげな眸で一瞥して、そっと総司は部屋を出て行った。

ぱすっと閉められた襖の音は、雨の音に消された。






総司が部屋を離れて行く足音が聞こえなくなる。
降りしきる雨の音だけが残った。








しとしと、ぴちょん

雨の音。




こんな音を聞いているだけで、あいつの甘い言葉とか、何気ない一言とか、を、ひとつづつ忘れてしまう気が
する。












記憶ってさ、どんどん、古い順になくなってっちゃうの。





ずっと昔に平助が言っていた、のを思い出した。

そのずっと昔が、いつのことだったかは、思い出せなかった。







こうやって俺は段々、愛しいひとを忘れていくんだ。





「うーん・・・どうしようかなぁ・・」
-


思ったことを声にだしてみたら、案外のんびりした声が聞こえた。



「なくな、ちゃう、の・・・・・」





やだなぁ、




そんなんだったら、目が見えなくなればいいのに。


耳が聴こえなくなればいい、匂いがわからなくなればいい。







五感なんて、いっそ全部きれいに消えてなくなってしまえば


そうしたらあいつの事を忘れなくてすむかなぁ、あいつは、消えなくてすむかなぁ、俺の中から




なんて。









「 大好き 」




花を見ながら、呟いてみる。









前は何を見ても平助の面影と重なったのに、


おかしいなぁ、花にしか見えないよ。


赤くて赤くて、鮮明な、











そっと手を伸ばす。気付かれないように、慎重に

まるで、花が生きているかのような、気付かれたら逃げられてしまうような気がして



くしゃり、






花を潰してみると、瑞々しく見える見掛けとは反対に、ひしゃげた音がした。



少し力を入れて握っていた手を開くと、赤が滲んでいた。









それは、林檎のような


それは、夕焼けのような



割れてしまった、花瓶のような










「へいすけ、」




ばらばらになった、林檎みたいな花弁を一枚、口に含んでみた。







噛んでみると、少し苦かった。

甘い林檎みたいなのに、苦かった。




花についていた砂を噛んで、奥歯がじゃりっと音をたてた。

溶けそうな夕焼けみたいなのに、じゃりっと音をたてた。




さすがに、花瓶の破片みたいに痛くはなかったけど、


口じゃなくて少し、心が刺されたように痛い気がした。













「記憶ってさ、どんどん、古い順になくなってっちゃうの」

「なくなるの?」

「うん、なくなっちゃうの」

「・・・・・・・さみしいね」

「・・・うん、さみしい」











きっとあのとき平助が思っていたのは、綺麗な目をした優しい笑顔。





その笑顔がなくなっちゃう前に、どっかに行っちゃいたかったの?

寂しいのに、耐え切れなくなっちゃって、優しい笑顔にすがり付いて俺に苦い苦い思い出を残してそれがどんどんなくなっちゃう事を知っていて、

俺を置いていっちゃったの?

そんで、自分もいなくなっちゃって。




ばかじゃないの。





俺が平助をなくしちゃうかもしれないのに、お前は俺のことを思い出せもしないんだね。




悲しいよ、俺は


花瓶を割ったときなんかより、ずっとかなしくてさみしいよ。





ねぇ、俺はお前をなくしたくないな。






噛み締めた奥歯が、もう一度じゃりっと音をたてた。


俺はなんだかとてもとても泣きたくなった。






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06 9/30up