生まれ落ちたとき、あるいは貴方に出会った時から、俺はずっとずっと長い夢に溺れていたのかもしれない。 いくつかの嘘とたくさんの犠牲を重ねて真実を作るには俺は少しだけ弱すぎて、 結局大好きな人を殺した大好きな人たちを裏切る形で俺はその真実から逃げた。 俺は自分のそんな行動を間違っていたとは思わないし正しいとも思わない。今も思っていない。 (ただとても悲しいとは思うけれど。) 寒い、と言おうと開いた口からはか細い息が漏れて、ひゅぅ、と俺は吹けたことのない口笛のような音がした。 俺は口笛を吹くのが苦手だった。(正しくは、吹けなかった。) ひゅぅ、とその息みたいな音をたてる風が吹く。寒い。目の前では愛しい人、かつての同士が、大きな目で俺を見てる。 そうだ、寒いのならこの地面から起き上がって付着した砂埃をはらってこの人に抱きつけばいいんじゃないか。 いつも俺はそうしていた、はずだ。 そう思っても起き上がるのが少し億劫で、だから俺はその温かそうな肌に触れられたらそれでいいと思った。 でも手を伸ばして触れたい頬は思いのほか遠かった。から、しょうがなく手を下ろす。触れた地面は冷たい。視界に入った手は真っ赤だった。 「・・・・・・・何か、してほしいこと、あるか?」 こんな寒空の中で赤く染まった平助の頭を抱えるようにして、今言うべきことでないと思う事を口にする。 本当はこれをもうちょっとだけ早く訊いてやってたら、良かったのかもしれない。 でも今ここで、平助の細い細い息使いや下がっていく体温や 時折感じる(悔しい事に何をしたいのか分からない)手の動きを少しでも長く感じるためなら、 俺は何だってしたいと思った。 平助は一息置いてから焦点の定まっていない目で俺を見つめた。 今ほどしっかり俺を見て欲しいと思ったことはかつて今まで一度もなかったのに、きっと平助が見ている俺は薄れて歪んでいる。 それはもう、どうしようもない事だ。 「俺は・・・ぱっつぁんと、一緒に・・・いたかったよ」 いつもより数段ぼんやりした声で(平助の意識もこんなにぼんやりしているんだろうか)そう言った。 「馬鹿やろう・・・過去形じゃねぇか」 「うん・・・俺、すごく楽しかった。みんな一緒で・・・」 「・・・・っ・・それは、良かった、な」 「そうだね、良かった・・・・とっても良かったよ・・・・ねぇ、」 声と口調と(おそらく意識と)同じくらい、平助のあまり大きくない、焦点の定まってない目が更にぼんやりしてきた。 眠いのかな、ねぇ、もう戻ろうよ。まだ大丈夫だよ、 「・・・・・何だよ」 「・・ありがと、・・・・でも、もう、いいや」 「・・・・・、」 赤く染まった地面に寝転がった平助が、もういいと言った。それが指す意味を分からないくらい馬鹿じゃない。 でも俺は平助の痛みに気付けないほどの馬鹿でどうしようもなく愚かで惨めだ。 「・・・・そっか・・」 この赤くにごった眩しい色を俺は知っている。これは死んでしまう色だって事を、ちゃんと。 そしてこの色は平助からの、 「へいすけ、」 あぁ、ねぇ、俺は今この瞬間、人生の全てに(もしかしたら世界中の全てに)相当するくらいの絶望を見たよ。 言ってしまったよ、俺。 もうこれで戻れないんだよ、俺。この人の中にもう俺の居場所はないんだ。 小さな人は、そっか、と納得したような声を出したのに、俺はまだ自分が言った言葉を上手く消化できていない。 意識はまだ怖いほどはっきりしているのに、手も足も頭も、目も、うまく働かないんだ。 目の前のこの人はどんな顔をしてるのかな。泣きそうな顔をしていてくれれば嬉しいけど。 でもきっとそんな顔、してくれないんだろうね。 壊れ物を持つときみたいに緩やかに俺は抱きしめられている。壊れてもいいから、もっと強く抱きしめてほしい。 もし運がよければ抱きしめられてそのまま死んでしまえるくらい、つよく強く。 そしてそのまま死んでしまおうよ。そうしたら俺はあんたにものになれる気がする。それであんたは俺のものだよ。 夢を見ていたんだ。生まれた時から、あなたに会ったときから、ずっとずっと溺れていたんだ。 そうしていつか、目覚める日を望んでいて。 ぽつりと頬に落ちる、彼の涙が温かい。泣いてくれている。 でも俺の体はきっとその温度が分かるくらい冷え切っていて、彼の涙を拭えない。 涙なんて冷たくて悲しくて嫌なものだと思っていた。けれどこの温かさをくれるのならそんなに悪いものでもないね。 あぁだけど、俺を抱きしめながら泣くこの人がこの温かさを知らないままでいてくれたらいい。 大雑把でやりたい放題に見えて実は繊細な大きいあいつも、幽霊みたいなあいつも、大きくなった子犬も胃炎が酷い彼も怖い顔の仮面を被った優しい鬼も みんな、知ることがなければいい。 きっと儚げな女に見えて実は男らしい綺麗な髪のあいつは俺ほど愚かじゃないから(むしろ彼はとても賢い)きっと過つことはないだろう。 ぼんやりする意識で思い出す彼らは明るくて陽気であまりにも見慣れすぎていて、きっともう、俺は何も憎めない。 (なぜなら彼らが大好きだから!) どうしよう、ねぇ、俺はどうやら自分で思っていたよりももっともっとずっと弱かったみたい。 死ぬのがとても怖いよ。 夢を見ていたよ。生まれた時から、あなたに会ったときから、ずっとずっと溺れていたよ。そうしていつか、目覚める日を望んでいたんだ。 けれどそれももう終わり。 あぁ、どうか、みんなみんな、俺の愛した人たちが、しあわせに、どうか幸せに。 祈りにも似た気持ちでそれを望んで、俺の目はなにも写さなくなって、そして、 「・・・・へい、すけ」 平助の身体がズシリと重たくなった。 命がなくなって血も溢れ出て当然身体は軽くなるものだと思っていたけれど、どうもそれは違ったらしい。 支えられないほどではないけれど、とてもとても重い、平助の身体。 あぁ、これは平助の重さだ。けれどもうこれは平助ではないのだ。 指に触れた。この形を知っている。きっと俺の手にこれ以上なじむ指はないだろうってくらい知り尽くしてた心地の良い形。 でもこの指はもう永遠に俺のものになることはなくて、それは瞳も髪も平助の細胞の一つ一つにも言えることだ。 平助は俺に何も残さないまま死んでしまった。 そうか、きっとこれは俺にとって唯一の、 ずっと平助を見つめるための方法なんだ。 ---- 2007/04/05 |